本格ミステリの傾き者、推理作家 [霞流一 探偵小説事務所]
泳ぎを覚えたのは生まれ故郷・岡山の川であった。
夏休みともなると、今は亡き祖父の指導で水泳の練習に励んだものだ。それはなかなかハードな訓練であった。普段はとても優しい祖父なのだが、こと水泳に限っては人格が変わったように厳しい。ビーチボールや水鉄砲などの軟弱な遊戯は決して許されない。ただひたすらに泳ぐことのみ。それもとにかく長距離にこだわっていた。
祖父は太平洋戦争中、海軍の巡洋艦か何かの長であった。そうした背景から、船の沈没という極限状況を念頭において私に特訓を施していたようだ。命に関わることだから厳しい。祖父の中ではまだ戦争は終わっていなかった(あるいは次の大戦を想定していたのかもしれない)。
私が旅行などで連絡船を使うと聞くと、祖父は必ず一等席に乗るよう命じる。遭難事故の際、一等客から順に救助されるという海のルールがあるからだ。金がかかるから嫌だなと思いつつ、あんまり頑なに言われるのでしぶしぶ従ったものだが、映画「タイタニック」を観て初めて納得した。ディカプリオは三等客、ああなって当然じゃ、と祖父の声がサウンドトラックに混じって聞こえてきた。
夏休みを費やして軍事訓練に明け暮れた故郷の美しい川に恐るべき転機が訪れた。
とんでもない大バカ野郎(いや、クソ野郎)がなんとバキュームカーのホースを川に捨ててしまったのである。町中が大パニック。大腸菌にまみれた川は当然、遊泳禁止となった。
さすがの祖父も特訓は断念。もし、それでも強行していたとすると、いかなる戦局を想定してのことだろう? いやだなぁ。
この事件以来、町では川遊びの習慣は失せ、綺麗になった今も、泳ぐ者はいない。
ちなみに排泄物のことを隠語で「黄金」という。わが故郷の川の名は「金剛川」であった・・・・・・。
http://www.kurenaimon.com/mt/mt-tb.cgi/6391